昭和50年11月22日 朝の御理解
御理解 第34節
「此処へ参っても神の言ふ通りにする者は少ない。皆帰ってから自分の好いやうにするのでおかげはなし、神のいうことは道に落としてしまい、わが勝手にして神を恨むやうな者がある、神の一言は、千両の金にも代えられぬ、有り難く受けて帰れば、土産は船にも車にも積めぬ程の神徳がある、心の内を改める事が第一なり、神に一心とは迷いのない事ぞ。」
心の内を改めることが第一なり、神に一心とは迷いのないことぞ、と一番最後の所。ここの所が出来なければ、初めからここえ参ってもと言う所、それから例えばおかげは船にも車にも積めぬ程の神徳があるとおっしゃられてもそれを頂くことが出来ません。先ずは心の内を改めることが第一なり、同時に神に一心とは迷いの無いことぞと言うおかげを受けなければいけません。
昨日午後の奉仕のときに上野先生がお届けに出て参りました。先日或る方からモヘヤのコートですか、本当に勿体ない様な色合いといい、無地のなんとも言えん上野先生辺りが着せて頂くのに、と言う様なまあ言うならば最高のものですかね。を頂いたと言うて、それをここにお届けに来ました。先日からも本当に天気の好い日に、虫干しさせて頂きましたが、とても私が例えば、私がもしお教会で修行さして頂いていなかったら、こんなに沢山着物が出来る筈はない。
もう自分ながらたまがりました。しかも見事な立派なものばかり、ここで皆さんからいろいろとお供えを頂いておかげを頂いて、やっぱり女の方ですから、一枚でも着物が多いのは嬉しいでしょうね。同時に私はお徳と言えば、衣食住と言われる、その衣の徳が身について来るということは素晴らしいですね、それこそ布一寸買いません。これもやっぱり二三日前、内田のおばあちゃんが、ここでお届けしとりましたが、今日は公子の虫干しに手伝はして頂いてから。
まあ何時の間にこげん沢山出来とったのと言う位に、沢山着物が色々出来た。こっそり作った訳でも何でもない、やっぱりあっちから一反、ここから一枚と云った具合にこれは公子先生に丁度良かと、皆でやっぱりお供え頂いとるです。昨日は末永先生の、明日が末永先生のところの秋の御大祭です。それが先日電話が掛かって来とりましたが、お手伝いに来てくれ、斎員にも出て貰いたいからと、お届けがあっておりました。
それでその事を、私が大体親子三人で行く筈のが、末永先生が一人で行く様になったと話を御理解で話ました。それを聞かれた御信者さん達が、あちらにお帰りになるならというて、昨日、」或る方が来て入口の所に、こんなに沢山荷物が置いてあるとが、荷造りしたとがありますがと言う。何かと思うたらなに、末永先生が今朝から行かんならんからと、持って帰らして貰うものをあそこに集めさして頂いておる。
それがみんな壱岐と言う所は、お野菜が少ないそうですからというて、たくさんお野菜を持って来て下さる方があり。もうそれこそ漬物まで漬けて重しがかかっておるのも、それからお菓子と言えばたくさんもう色々なお菓子を皆さんからお帰りになるならば、どうぞというて持って来て下さった。私はこれがすでに徳だと思います。例えば今日の御理解で言いますとです、神の一言は千両の金にも代えられないという思いを、だんだん募らせていっておる訳です。
まあここで修行でもさせて貰いお道の教師でもならせて頂こうというのですから、もう第一そこに一心がおいてあるのです。同時に迷いがあった分には教会修行は出来ませんです。一番最後の所の心の内を改める事が第一なり、神に一心とは迷いのない事ぞ、という所をまず踏んまえて、そして神の言う事をそれやぁ出来たり、出来なかったりした事はありましょう、また失敗した事もございましようけれども。
ギリギリの所神の一言を例えば、昨日の御理解をいうというならオカルト親先生の言葉を、神の御一言として頂いて、その修行をしておる所に言うならば衣の徳食の徳が身について来ておる。もう例えばこの人達が修行をさして貰って、まあ布教に出る時期が早晩あるでしょう。そこにはです言うならばそのお徳を持って行くのですから、あの着物だけは知っているけど、食べ物やらお金は知らんという神様ではありませんから。
それだけ身についた徳というもの持って、言うなら布教に出る、人が助かる、自分も助かると言う事になって来るのです。上野先生が完璧にが出来ておるとか、末永先生が出来とると言う事ではありませんけど。それに取り組んでおると言う事なんですよ。ここで信心の稽古をさせて貰う、然もプロとしてのおかげを頂かなければならんためにはです。もうとにかく一にも二にも親先生の仰る事を神様の御一言として頂く。
また行の上にそれを現して行こうと、云うなら出来たり出来なかったり、と言う事は倒れ転びしながらでも、それに縋って進めて行っておる事がです、取りも直さず船にも車にも積めぬ程の神徳が身に付いて行きよる証拠です。そこでです私共は本気で、心の内を改める事が第一なり、神に一心とは迷いのない事と言う言うならば日々の改まりと言う事に本気に心をそりゃ人間の事ですから倒れ転びしながらでも良いです。けれど矢張り焦点はそこに置かねばなりません。
そしてこれがお徳であろうかというものの実感がね、衣食住一切の徳にも継ながって行く事です。それを感じませんと有り難い ものがなら皆さんなんかも確かに受けて行かれとるです。それでも何とはなしにです、言うなら頂き足らんごたる思いのある中にです、徳を徳と気づかんでおる、お徳を疵つけておるそんな感じがします。ですからそのお徳をああこれがお徳というもんだなあと感じさせて貰うと言う事頂くと言う事がです、分る信心を頂かねばいけません。
同時に御教えを右左にしてはおかげになりません。皆さんもそれぞれに頂いてああ今日の御理解はここの所を今日は行じさせて頂こうという様にです、それに取り組んでおられる限り、必ず船にも車にも積めぬ程の神徳が身に付いて行く。その神徳というものは、一遍にぱぁと頂くものじゃない、何時の間に溜ったか分らないこれ程沢山の着物、と言う様な事なんです。だからお徳を受けて行きよる事を何かこうそんな事をいうたら何か自慢をしておる様なふうにいうけど、そんなこっちゃないと思うです。
矢張り自分で自分の受けて行きよるお徳というものは、確かにこれが御神徳というものじゃなと、そういうものを感じて、それを積み上げて行く事の為に、言うならば愈々御教えに取り組む信心を身に付けて行かねばいけません。今朝方からお夢を頂いて、今月末永先生が、あちらにやらして頂く事を、お夢に頂きよる、そして何か波止場まで行って何かの事情があって、船に乗られないという所を頂いた。
あ痛私は夢からさめてね、末永先生が、あげん言いよった楽しんで向こうも待ってある、こっちもあんなにお供えも沢山頂いて、行よるが行かれんごとなるとじゃなからうかと思うて、また改めて床の上でその事をお願いさせて頂いたらです、従う心が強いと頂きました。例えばなら今日は波止場まで行った、船に乗られん、ああこれは神様のご都合に違いはないと、スキッと恐らくする事でしょう。日頃の稽古です。親先生がこういうから、そんならさっと従う心、ほんに残念な事じゃった。
これだけ用意して行こうと、思いよるとにという様なものがないだけの、おかげを受けておると言う事です。だから末永先生はこの事だけでも自分が従う心が誰よりも強いと言う事をお礼を申し上げねばいけません。 皆さんでもそうでしょう。親先生が言われる、あの最近従うと言う事、本当に、私達も私一家も従うと言う事に付いては、誰よりも強いものを持っておると、皆様が思われたらね、この事を大変有り難くお礼を申し上げて、それだけになれておる事に対してね、お礼を申し上げねばいけませんよ。
例えば本当に波止場まで行って、然もこれだけのお供えまで皆がことづけて下さって、向こうへ行ったら親も喜ぶだろう兄弟も喜ぶだらうと思うて行っとっても、その船には乗られん行けなくなったと言う時に、もうそれこそサッパリした事でしょうね。日頃稽古が出来とるから、もうこれは御神意に違いない、神様のご都合に違いはない、それに従う事が有り難いと言う事をです、誰よりも頂かせて頂いておる、其の事に対してお礼を申し上げねばいけません。
今日は皆さんにね、皆さんもね、お徳を確かに受けて行かれよるです。それは今言う様に倒れ転びではあるけれども、矢張り御教えを右左にする、御教えを頂いて帰ってもそれを守らない時もあらう、けれどもまたは守りよる時もあるのです。なら家の修行生の方が完璧に出来とる事じゃない。また失敗しましたと言う事もあるけれども、何時の間にか一心の真をです。言うならば一心とは迷いのない事ぞと仰る迷いのない信心を日々の改まりに掛ながら、信心修行させて頂いて言うならばプロを目指す。
先生を目指しとるのですから。先ずは自分自身が助からなければならん事に一生懸命の修行をさせて貰って、親先生の仰る事を神様の御一言として頂く稽古またそれを信じてしておる。けれども人間生身を持っておるから又、その障害にあったらです、失敗したということもあるけれども、それに精進している内に、いつのまにか徳を受けておる。私共も随分あっちこっちの修行生の方から聞きますけれども。合楽の方達の様に本当に言わば本気で修行しよる人達がです。
一切のものに恵まれ続けておる事はもう驚くばかりです。殊に光橋先生あたりそうでしょう。あれだけ日々に本当にまあよう惟だけのお供えを、出来なさるという位にお供えしとるけれども、それは出来たり出来なかったりと言う事もありましょう。それを行に表しておる事も、けれどももう親先生の仰る事は神様の御一言だとして。矢張り頂いて行って、行の上に現はしておる第一人者でしょうね。
光橋先生。そこにですだから自分が徳を受けて行っておる、積み上げて行っておるという自覚が出来ませんとね、愈々の時に確信のある行き方が出来ませんです。今日は私は皆さんは徳を受けて行かれよる。そこん所をです一つ発見して頂きたい。是がお母さん徳というものじゃろうねと、是がおかげというものじゃないです。皆さんの場合確かにお徳を頂きよんなさるです。だからそれが、是がお徳だと言う事が段々に分かって来るとです。お徳の魅力です。
本当にお徳を頂く為にはこの位の事で失敗しちゃならんという物も又強うなろうと思うです。おかけいを頂かんならんという所とは違うです。お徳を頂かんならん、いやお徳を実際に積んでおるその印が是だというものをです皆さんが受けて行っておられるです。ここで言うならば、貧争病のない世界に住んでおられる。それは大形小形色々ありますけれど、本当に日々の生活の中にあれに不自由これに不自由したと言う事はなしに、言うならばその日その日のおかげではあるけれども。
おかげは受けておると言う事実をね、それをおかげと思わずにお徳と思はにゃいかんです。お徳ですおかげというのは消えます。これはお徳を受けて行きよる、自分の上にもお徳を受けて行きよる。第一衣食住の徳がささやかながら。こうしておかげを、頂けておるということ。だからお徳と言う事に、それが気付かせて頂くときにです、愈々そのおかげを積み上げて行くのはもろいけれども、お徳を積み上げて行く事の有り難さが愈々身にしみて来る様なおかげ。
今日は神の言う事は道に落としてしまい、我が勝手にして神を恨む様なものがある。皆さん恨みよんなさらんでしょうがいっちょん。恨みよんなさるですか。恨みよんなさる人はないです。してみると皆さんがです、例えばその教えを行じておられる証拠です。いやまた行じておられなくってもです、例えばおかげを例えば落とす様な事があってもです、これは自分の信心が至らぬからだと言う事になりましょうが。
だからそういうならおかげを皆さんが、教えを途中で落さずに持って帰りよんなさると言う事にして、今日は話を聞いて頂いた。そして一心の改まりにもまた、迷いのない信心を合楽に捧げておるという、皆さんがそこに有り難い、一つの合楽に通はして貰うとる合楽通いを誇りと思はせて頂く様なものが、皆さんの内容にある。本当に合楽に御神縁を頂いておった事は素晴らしい。
素晴らしい親先生を頂いて有り難い。まあ私が言うちゃおかしいけどね。皆さんがそう思うとんなさる信じとんなさると思うです。だからお徳を受けなさらん筈はないです。もう既にお徳の芽生えがあるです。その証拠には貧争病のない世界に住んどるじゃないですか。その日その日ではあってもです、尽きる事のない欠ける事のない、おかげを受けておるじゃないか。うちの修行生の方達が、改めて衣の徳を受けて行きよるな、食の徳を受けて行きよるな、このお徳をもって布教に出るならば。
また人にもお取り次ぎの御用も出来て、人が助かる事の確信がだんだん、それを本当のものになって来ると言うところにです、先ずは自分自身が受けておるお徳に気づかせて頂けと言う事を今日は聞いて頂いた。何時もと反対ですね、何時も貴方達がおかげを途中で落としてしまいよる。一心の改まりをしない、迷いがあるだからおかげを頂かん、と言う事でしたけれどもそうではない、一心を立てておられる迷いはない、もちろん日々の改まりも心掛けておる。
本当に親先生の言われる事は、本当に神様のお言葉と思はにゃおられない、と言う様なものを感じて行かれよる。それは人間ですから、又そこに思いの薄い人と、厚い人がありますから、教えを行ずると言う点に於いてもです、本気で取り組んでおる人も、取りくんでない人もあろうけれども。先ずは取り組んでおられる。だからおかげを頂き続けておられるから、神を恨む様な事は勿論ない、もしおかげ落としても、ああ自分が信心が足りんのだと言うふうに気付かせて頂いて一段と進めておる。
それをおかげと思うておったのを、おかげではない、それはもうすでにあなた方は、御神徳を受けていかれておるんだとああ是がお徳だと。皆さん方が確信される様になったらです言うならばお徳の魅力です。お徳を積み上げて行くと言う事は、愈々是があの世にも持って行かれるとばい、是が子孫にも残るとばいと思うから、愈々徳を積んで行く事が有難い事になるでしょう。そして今までよりもです、今日を境にそのお徳を積み上げて行くところの、愈々信心に励まなければならんと言う事になる訳ですよね。
どうぞ。